モザンビークの今

はじめに

モザンビークという国を聞いて、みなさんはどのようなことを思い浮かべるでしょうか。おそらく、モザンビークは日本であまり知られていない国だと思います。ですが、実はモザンビークと日本には深い繋がりがあったりもします。ここでは、モザンビークの今について、日本との関わりや歴史も踏まえながら、少し柔らかな視点から見ていくことにしましょう。

モザンビークと日本の歴史

話は安土桃山時代にさかのぼります。天下統一を目指した織田信長の時代です。この時代に書かれた「信長公記」という書物に日本の文献史上はじめての、アフリカからやってきた黒人についてのお話があります。その黒人の名前は「弥助」といいます。彼は少しですが日本語を話せたそうです。信長に気に入られた彼は召しかかえられるようになりました。

日本とアフリカの最初の出会いは、この弥助との出会いだったのです。そして、彼の出身地はなんと「モザンビーク」だったのです。もしかすると、信長が思い浮かべたアフリカのイメージはモザンビークだったのかもしれませんね。

モザンビークってどんな国? 基本情報

モザンビークは人口が約2,583万人(2013年、世界銀行)、日本の約2倍ほどの国土を持つ国です。公用語はポルトガル語ですが、バントゥー諸語、スワヒリ語など諸言語が混在しています。国民は、マクア・ロムウェ族、マコンデ人、シャンガーン人、ショナ人、スワジ人などのバントゥー系黒人の諸民族が大部分を占めます。

近年は日本の首相がモザンビークを訪問するなど、交流が盛んであり、ABEイニシアチブ(The African Business Education Initiative)で多くのモザンビーク人留学生が日本で学んでいます。

モザンビークはポルトガルの植民地でしたが、1975年6月25日に独立を果たしました。2015年は独立40周年を迎え、日本でも独立を祝う会が各地で開かれました。

上空からみた首都のマプート

初代大統領サモラ・マシェル像

モザンビークの経済発展

モザンビークは1975年の独立時から世界で最も貧しい国のひとつとされてきました。ですが現在では年7~8%の経済成長を遂げ、都市は著しく発展しています。主要な産業はアルミニウム、天然ガスなどであり、モザンビークに対する外国からの投資が大幅に増加しています。首都のマプートでは近代的な建物が建ち始め経済発展を感じさせます。また、エビが豊富にとれ、日本にも多く輸出されています。

建設途中の中央銀行(2015年)

モザンビークを駆け抜ける日本車たち

モザンビークを訪れて、まず驚くことは日本車の多さではないだろうか。実はモザンビークは日本と同じく車は左側を走るのだ。(隣国の南アフリカ、ジンバブエも左側走行)そして、おもしろいことに車の多くは日本での役割を終えた中古車たちなのである。もしかすると、あなたの知っている車がモザンビークを走っているかもしれませんね。

モザンビークの農村部

一方で都心から離れた農村部でも多く存在した絶対貧困(一日当たりの生活費が1.25ドル以下)から徐々に抜け出しつつあります。また、小児死亡率も低下し、就学率も上昇しています。ですが、依然として貧困層は多く、農村所得の成長とHIV(エイズ)への対策、保健衛生の向上や安全な水へのアクセスが求められています。

マプト州モアンバ郡(2015)

モザンビークのある小学生の一日

小学校の廊下

小学校の廊下

ここではモザンビークの首都マプートに住むある小学校6年生の女の子の一日を紹介します。

彼女は朝の6時に目を覚まします。顔を洗い、朝ご飯を食べた後、シャパと呼ばれるバスに10分ほど乗って小学校へ向かいます。そして、学校は7時から始まります。

授業は国語や算数、社会科、体育などがあります。途中に業間休みもあります。休み時間には誕生日パーティーがよく始まり、保護者の方がケーキを学校に持ってくることもあります。学校は12時に終了し彼女はバスで帰宅します。1時から別の学年の子どもたちが登校し、午後の部がはじまります。

彼女は家に帰ると宿題や家事のお手伝いをします。実は携帯電話を持っていて友達と連絡を取ることもあります。夜の9時には眠りについて明日に備えています。

授業の様子

授業の様子